信仰の道を最後まで歩き続ける為には、愛を与える存在になること。

 

これから小さな悟りというか、信仰生活で感じたことをコッソリ書いていこうと思う。

 

何か一つでも貴方の役に立てれば幸いだ。

 

語尾を論文調にしているのは、文章が読みやすくなるからだ。

 

(決して偉そうにしているわけではありません。)

 

このシリーズはRAPT BLOG有料記事の読者向けに書いているから、神様のことを知らない人が読んでも、理解できないかもしれない。

 

だから、貴方が初訪問の方なら以下記事から読んでみて欲しい。

 

 

 

昔は誰に対しても嫉妬心や劣等感などを抱くことがなかった。

 

しかし、昨年末くらいから、優れた情報拡散を行う兄弟に対して、小さな嫉妬心を持つようになってしまった。

 

優れた証を書く兄弟に対して、自分の悟りの低さに小さな劣等感も抱くようになってしまった。

 

そして、昔からの兄弟にイイネを押される頻度が減って、小さな疎外感さえも感じるようになってしまった。

 

完全にサタンにやられているし、自分の心の弱さを克服できていない。

 

こういった負の感情を抱いたら、即座に神様に意識を向けて悔い改めて、明け方の時間にも悔い改めている。

 

そうすれば負の感情は消え去るのだが、また日が経つにつれて芽生え始めてくる。

 

サタンがしつこく送ってくる感情なのか、自分の根っこが腐っているのか、いずれにせよ心が汚れている。

 

これらの感情を抱く原因は、結局は人に認められたいという願望があるのだと思う。

 

しかし、承認欲求を満たしても意味があるのだろうか?

 

安心感には満たされるだろう。

 

だが、ハッキリ言って神様の世界では、そんなものは役に立たない。

 

例えば、一つのツイートで大勢の兄弟から100のイイネを押されたとしても、実質的に外部の人をRAPT BLOGに導くことが出来ていなければ神様は喜ばない。

 

例えば、誰からもイイネを押されないツイートでも、100人がRAPT BLOGのリンクを踏んでいれば、外部の人を導くことが出来ているから神様は喜ばれる。

 

実際、フォロワー数が少ないサブアカウントで情報拡散した時に、イイネの数が2で、リンクのクリック数が200を超えた時は、画面の前で思わずガッツポーズをしていたりもする。

 

なぜなら、人が見えないところで義の条件を立てると神様が喜ばれるからだ。

 

だから、人から認められるというのは大して意味はない。

 

そういう下らない欲求は毎日捨てるように決心している。

 

それに人から認められたいというのは、言葉を言い換えると、人から愛を求めてしまっている。

 

神様とRAPTさんは「愛は求めるものではなく、愛は与えるものだ」と教えて下さった。

 

この掟は、あくまでも隣人に対する場合だけだ。

 

愛の本体である神様であれば、無限に愛を求めるべきである。

 

だから、神様の愛を第一に求めて、隣人に愛を与え続ければ、劣等感や嫉妬心や疎外感など抱く暇などないのだ。

 

実際に、これらを悟り直してからは心が強くなった。

 

あと、これに付け加え自分の考え方も変えた。

 

そもそも、私のような罪人は兄弟の上に立つに相応しくない。

 

もともと、清く生きてきた兄弟こそ、上に立つべきだと思うからだ。

 

だから、私は一番小さな者でいいし、別に目立たなくてもいい。

 

かといって、世界一の大使徒になる為の祈りは1日として欠かしたことはない。

 

話を戻すが、ここまで説明したことを実践することによって、心の罪を犯す頻度が極端に減った。

 

最後まで信仰生活を全うするには、心を強くするしかない。

 

そして、その方法は簡単だ。

 

ただひたすら神様を愛して、喜ばすことだけを考えていればいい。

 

そして、兄弟に愛を与えられるように、自分の愛と能力を成長させていけばいい。

 

それが、この長い道を最後まで歩き続ける秘訣だと確信している。

おすすめの記事